書評

『知性は死なない 平成の鬱をこえて』(文藝春秋)

  • 2018/09/21
知性は死なない 平成の鬱をこえて / 與那覇 潤
知性は死なない 平成の鬱をこえて
  • 著者:與那覇 潤
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(292ページ)
  • 発売日:2018-04-06
  • ISBN-10:4163908234
  • ISBN-13:978-4163908236
内容紹介:
私を育てるとともに、追い詰めた「平成」の思潮とは何だったのか。「知」はどうあるべきか。自身の体験とともに綴られた、待望の書!

身体性に裏打ちされた言語が重要

新進気鋭の歴史学者として“デビュー”した著者は、2011年に出版した『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)も大きな話題を呼び、その活動の場を一気に拡(ひろ)げつつあった。評者も対談でお世話になったことがあるが、学者としての篤実な佇(たたず)まいからは想像できない思考のスケールに驚かされた記憶がある。

しかしその後、気がつけばその名前を目にする機会がめっきり減っていた。本書を読んで驚いた。著者は14年に躁(そう)うつ病を発症して入院治療を受け、17年には大学の仕事を辞していたのである。

本書は、著者が罹患(りかん)した躁うつ病の体験に、19年4月に終焉(しゅうえん)を迎える平成時代の社会的な変動を二重写しにするという、いささか奇妙な構成を取っている。精神科医としてまず興味深いのは、前半部分に記された著者自身の自己分析である。発症に至るまでの詳しい経緯と、うつについての俗説を正す「10の誤解」の部分、さらには精神病理学を援用した自己分析に至るまで、知識人の書いた当事者本としてもきわめてユニークな内容になっている。

精神病理学とは、簡単に言えば「精神疾患の心理学」であり、精神医学の中では近年凋落(ちょうらく)が著しい分野だ。しかし本書にあっては、このパートはきわめて重要である。著者は精神医学の教科書などにはよらず、精神病理学の方法論を用いて自己分析を行っている。当事者が自分自身の言葉で自分の病気を解明する行為を当事者研究というが、精神病理学がそうしたツールになるというのは新鮮な驚きだった。

この方法論を用いた著者の結論はこうである。人間のあり方を言語と身体のふたつの極からとらえるなら、躁状態とは言語のほうにバランスがかたよった状態であり、うつ状態とは物質としての身体のほうに振れきってしまった状態ではないか。自分の言葉に引きずられるようにして過活動になり、そこで前借りしたエネルギーを身体でかえすうつ状態に陥ると、活動がまったくできなくなる。おそらく精神科医からは異論が出そうなこの解釈も、著者自身の罹病(りびょう)体験に裏打ちされた言葉と考えるなら強い説得力を帯びてくる。

著者は大学に勤務していた当時、さまざまに理不尽な出来事を経験して、大きなストレスを感じていた。しかし、自身の疾患はそのせいである、とはしない。著者が憂えているのは勤務先の理不尽といった些末(さまつ)な問題ではなく、平成年間における知性の凋落ぶりのほうである。

著者によれば、いま世界規模で「身体が言語(理性)に反発している」のだという。ひところ吹き荒れた(誤用を含む)反知性主義批判にしても、身体性に配慮を欠いたために人々の支持が得られなかった。こうした身体の反乱が世界規模で起きた現象が「帝国の崩壊」である。

著者は帝国を「言語によって駆動される理性にもとづき、官僚機構が制度化されたルールをもうけて統治している空間」と定義づける。その一方で民族を「ここからここまでが『われわれ』の範囲だ」という、身体的な実感にもとづく帰属集団のこととみなす。

こうした視点から世界情勢を眺めると、ソビエト連邦の崩壊も、トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」も、「帝国」(言語)に対する「民族」(身体)の異議申し立てと考えられる。イギリスの離脱に端を発したEU(帝国)の解体危機や、沖縄の基地問題にもそうした側面があると著者は指摘する。そんな中で、なぜひとり中国のみが安定した「帝国」を維持しているのか。著者は内藤湖南の言葉を引いて、人々(身体)が超長期に及んだ帝国の支配に慣れきってしまったから、と解釈する。

それでは、どのような社会が望ましいと考えるべきか。著者は自らの病の体験にもとづき、共産主義と訳されてきた「コミュニズム」を、社会が能力を共有する「共存主義」と訳し直すことを提案する。あらゆる能力は「私有」することができない。それを私有可能とする個人単位の成果主義は、組織を流動化・不安定化させてしまう。共存主義とは能力を組織が共有することで、組織の安定と競争原理を両立させることであり、この点で多くの日本企業はコミュニズム的である。これからの社会では、企業の外にコミュニズムを解き放ち、能力の共有と自由や競争が共存できる「赤い新自由主義」が対抗軸になる、と著者は主張する。

しめくくりに著者は読者に呼びかける。「なぜ」という疑問を駆動させる身体的な違和感と言語による思索、その双方を大事にしてください、と。評者の臨床経験から補足するなら、実は言語と身体は対立しない。たとえば対話における言語は、身体性抜きでは十分に機能し得ない。

望ましい知性とは、身体性に裏打ちされた言語で構成されたものであり、その意味で知性ある人の対話による団結を呼びかける著者の姿勢には強い共感を覚える。一度は絶望の淵(ふち)をさまよいながら、新しい言葉を携えてここに“生還”した著者の姿こそが「知性は死なない」ことへの意志と希望をみごとに体現している。
知性は死なない 平成の鬱をこえて / 與那覇 潤
知性は死なない 平成の鬱をこえて
  • 著者:與那覇 潤
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(292ページ)
  • 発売日:2018-04-06
  • ISBN-10:4163908234
  • ISBN-13:978-4163908236
内容紹介:
私を育てるとともに、追い詰めた「平成」の思潮とは何だったのか。「知」はどうあるべきか。自身の体験とともに綴られた、待望の書!

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2018年9月9日

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